クマとの関係を考える『クマにあったらどうするか』

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クマとの関係が変化した今だからこそ

「アイヌ民族最後の狩人」とされる姉崎等さんへ、映像作家の片山龍峯さんが2000年から合計6回にわたってインタビューを行い、そのやり取りが活字になった本です。

文庫版が発行された2014年3月時点でお二人はすでに故人ですが、クマとの関わり方が別次元になってきていると感じられる昨今、クマを知り尽くした姉崎さんと、アイヌ文化への造詣が深い片山さんの対談はクマと人間がどうあることが正解なのかを深く考えさせてくれる本でした。

私なりのクマとの関わり方を考えた

姉崎さんはクマ撃ちとして山に何度も入り、クマの歩くルートや生息地、果てはその気持ちまでも熟知している人です。

クマと対峙したときも何度もあるそうですが、私は姉崎さんがクマと同化しているように思いました。

クマの気持ちに同化できるからこそ、危機的な状況になっても対処でき、怪我もせず命を奪われることもなかった。

これは姉崎さんの長年の山での経験があってこそであって、一般人が真似できるものでは到底ありません。

そのなかで一般人である私が取り入れられることがあるとすれば、山に、クマの生息域に入らないということのみです。

もちろん2025年の時点では、東北地方を中心にクマが市街地にまで出没しており、山に入らなければ遭遇しないという状況ではなくなっています。

クマが街にまで普通に出てくるようになってしまった状況については、これまでの常識や対応では太刀打ちできず、新たな何かが必要であることは間違いありません。

ただ、その前提として、従来のクマの領域に入らないということしか一般人の私にできることはないと思っています。

クマは人間を恐れる(恐れていた)

この対談が行われた2000年の段階でも、クマの領域に人が入り込み、クマが人間の食べ物を覚えたり、人間が実は弱い生き物であることを知ってしまったり、という状況が増えつつありました。

姉崎さんはそのことに強い警鐘を鳴らしています。

しかしそこから20年余り経ち、今ではクマと人間の領域が大幅に重なるようになってしまいました。

姉崎さんによるとクマはもともと憶病で、人間を恐れる動物だということです。

もちろん人間は素手では何もできませんが、道具やさまざまな手段を用いて山で活動したり動物を捕ったりしているところを見ているために、人間を恐ろしい生き物だと思っているのだそうです。

そうしてクマは人間には近づかず、うまく両者の領域に線が引かれていたと考えられます。

しかし人間がどんどん山や自然に分け入り、人間の食べ物を置いてしまったり、環境の変化により山で食べ物が取れなくなったりして、クマの行動も変化してしまった。

人間の食べ物の味を覚えて、さらに山に食料がないから里へ降りてくる。

それまで恐れて距離を取っていた人間に近づきすぎてしまうため、人間との衝突も起こってしまう。

そうすると、人間は実は簡単に倒せる弱い生き物であることを知り、そこからはもう人間を恐れなくなる。

山での食料がないことも相まって、人間が食料になってしまうという事態が引き起こされる。

一度人間を襲ったことがあるクマは、必ずまた里へ降りてきて人を襲う。だからもう駆除するしか方法がなくなるのだそうです。

2025年のクマの出没を見ていると、人間を全く恐れなくなっているクマが増えたのだろうと思わされます。

ここからどうやって両者が付かず離れずの距離感で生きて行けるのか…。

仮にうまく両者に境界線が引けた場合には、人間側にその線を維持しようとする気持ちがなければまた同じことの繰り返しになると考えます。

姉崎さんの「規制をよしんば作っても、クマの方は守るかもしれないけど、人間の方は守らないでしょう」(本書p.298)という言葉が強烈でした。

クマ側ではなく人間側の問題というのは、誰もがきっと気が付いていることだろうと思います。

野生動物への思い

ファンタジーの世界や動物が好きな私は、何となく野生動物とも分かり合えたらいいなとか、仲良くなれたらいいなとか、能天気に想像することがありました。

でも自然の中で生きていた時代ならまだしも、ありったけの便利さを享受しながら「野生動物と分かり合う」なんて都合よすぎる話なんですよね。

文明の恩恵を受けた生活を選んだ以上、野生の領域にずかずかと人間の価値観で踏み込んでいくことは控えなければならない。

姉崎さんのように山を熟知しているわけでもない私は、あくまでもファンタジーの世界にだけ通用する物語として野生動物との交流を妄想すればいい。

現実世界でできることは、線を引いて領域に踏み込まないことだけ、本当にそれだけなんだと思いました。

姉崎さんが2025年現在にもしご存命なら、今の状況を何と言うだろうか。

何ができると考えるだろうか。

私は意識が高い人間でもなく、環境問題に熱心に取り組んでいるわけでもない、ごく普通に便利さを享受し続ける人間です。

情けないくらい何もできないけれど、何もできないからこそ余計なことは何もしない、ということのみが唯一できることなのかもしれないと思っています。

文明を享受している人間の責任として、自然のいいとこどりをしないことだけが今できることだと考えます。

姉崎さんの人生

本書の前半部分では、姉崎さんの生い立ちや若かりし頃のエピソードが語られています。

福島から来た屯田兵である父とアイヌ民族である母の間に生まれたため色々な苦労があったこと、戦争や捕虜の体験があること、など相当な試練の中を生きてきたことがわかりますが、そこに悲壮感はありません。

淡々と語るそのエピソードは、その時代を生きた一人の人間の歴史としてとても読みごたえがありました。

お金を稼ぐためにクマ撃ちになる以前から山でイタチやタヌキなど様々な動物の猟をしており、その詳細な情景もとても興味深く読みました。

こうした経験がクマに同化できるほどのクマ撃ちになる下地となったことは間違いないでしょう。

年々、自分とは時代も環境も異なる人の歴史に触れることがこの上なく面白いことだと思うようになっていますが、姉崎さんのエピソードにも本をめくる手がとまりませんでした。

まとめ

私は1980年代に北海道に育ち、幼少期には何も考えずに森や山の方に出かけたり遊んだりしていましたが、もしかしたらクマは側にいたのかもしれません。

それでも今とは違って、クマもわざわざ人間を襲おうと思う必要がなかった時代で、自然と両者に線が引かれていたのかもな…と思っています。

また本書の単行本版が出版された2000年代にも北海道にいましたが、クマを恐れるという場面を思い出すことができません。

北海道にいながらこの本の存在にも気が付いていませんでした。

クマとの関係性が大幅に変化した結果、文庫版が書店で大きく取り上げられるようになり、私もこうして読む機会を得ました。

クマに対する見方のみならず、アイヌの伝統に対する知識を土台にした片山さんのインタビューを通して姉崎さんの人生の一部を知ることができる本書は、今も色あせない名著だと思います。

以上で終わります。

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