ハクスリー『すばらしい新世界』
100分de名著をほぼ毎週見ています。今月は『すばらしい新世界』です。
実際の著書は読んだことがなく今回の番組で初めて触れましたが、内容もさることながら指南役の先生の解説やそれを受けての議論が面白く楽しみに見ています。
この番組は著書の内容を知るだけではなく、現代の生活の中で「同じことが起こっているかも…」ということに気づきその事実を消化していくことに最大の面白さがあると思っています。
特に伊集院さんの着眼点や指摘は鋭くて、たくさんのものを見てたくさんのことを考えている人なのだと思わされます。
言語化することが感情を明確にする
今回の内容では「言語化」が何をもたらすのかについて考えさせられました。
物語の中でシェイクスピアの著作に出会い、自分の感情を言語として認識し、それが一つの支えにもなった人物が出てきます。
もやもやした感情を「持っている」だけでは自分のものにはならない、言語化して初めて自分の感情を認識することができる。この点にものすごく共感しました。
指南役である堤先生の「言語化できない人は非常に洗脳しやすい」という指摘にも震えました。「言語化できない」=「自分の感情を自分のものにできていない」という図式が成り立つのであれば、「感情を無視した洗脳」がたやすくできてしまう、というのも納得できます。
言語化するための大きな手段の一つが「本」です。先ほどの登場人物がシェイクスピア作品によって自分の感情を認識できたように、本にはさまざまに言語化された事象が出てきます。最初はそれが何を言っているのかわからなくても、もしかしたらこの言葉は自分の感情を表わすものなのかもしれない…という形で複雑な感情を描く言葉を身につけていくことができる手段が「本」です。
そのため物語では、「ユートピア」を実現するために(=余計なことを考えないために)本から遠ざける政策がとられることになります。本に近づこうとしたら電気ショックを与えられるとか…すごい条件付けですね。
堤先生の指摘する、現代の「本を読まないこと(要約で済ませる)」や「言語化の放棄(「やばい」などの言葉ですべてをまとめてしまう)」という事象が、「自分の感情を理解できない(しようとしない)」ことにつながり、さらには「他人の感情も理解できない(しようとしない)」ことに発展すれば…。「感情を無視した洗脳」が成立するユートピアならぬディストピアが誕生してしまう未来も荒唐無稽な想像ではなくなるかもしれません。
もちろんこれは極端な結果ですが、そうしたことをさまざまに考える刺激を与えられました。
他者に支配されているということ
今回も伊集院さんの指摘は的確でしたね。
物語の登場人物が承認欲求にとらわれるようになったことを受けてのスタジオでの議論でしたが、SNSなどで「いいね」などを過度に求める行為は、結局他者に支配されていることなのではないか、ということでした。
自分で美味しい食事や素敵な景色をアップしていたとしても、それが他者からの賞賛を目的にしたものになってしまったら他者の反応に支配されている、つまり不特定多数の他者に支配されているということになります。自分の意思でやっているつもりでも内実は他者の支配を受けている、無意識のうちに支配を受ける側になっているという可能性の恐ろしさを感じました。
人間である以上承認欲求をゼロにはできないと思います。やっぱり褒められたらうれしいし誰かの役に立ったらよかったなと思います。
私はSNS関連は一切やっていませんが、だから「自分はそんな支配は受けない」と言うつもりはありません。たまたまSNSをやらずに済む状況にいるだけであって、SNSによる承認欲求の沼に落ちないで済んでいるだけの話です。
10年以上前くらいにはfacebookをやったりもしていましたが、思い返してみると危うかったなと実感します。目の前のことを楽しむより先にfacebookに手が伸びる…なんていうこともあったように思います。そんな自分に危機感を抱いて離脱しましたが、今はさらにSNSだらけの環境になっており「やっていない」と言うとかなり驚かれます…。きっと色々な付き合いの関係でやらざるを得ないという人もたくさんいるんだろうなと思います。
もちろん仕事としてあえて他者の承認を得るためにやる、というのは問題ないと思います。自分の意思とは異なる方向に行ってしまうことの危うさがSNSには潜んでいることを実感しました。
まとめ:言語化のために書く
私がブログを書くのは、やっぱり感情を言語化したいということが一番の理由だと思っています。
何かに触れた時に、ああ書きたい!と思いそれを言語化する。そうすることで何やらすっきりというか感情が落ち着くのです。文字になることで第三者的な視点でこういう風に思っていたんだ…と納得できる気がするのです。
言葉は非常に不自由で、うまく感情を表現できていない、陳腐な表現になっている…と思いなかなかうまく書けないことも多いです。それでも言語化を諦めたくはなくて、何とかして感情を言葉にしたいと思うのです。それが私にとっての癒やしになっているんだな~と改めて思いました。
堤先生が古典を読むことの大切さについて「昔の人の感情を知る」ことをお話しされていました。これについても思い当たることがあり、少し前にセネカの著作を読んだのですが(難しかった…)、同じようなことを悩みの対象にしていることにかなり驚きました。
約2000年前の人が、しかも哲学者が、私のようなものと同じようなことで悩んでいるなんて。人間の本質には変わらないものがあるんだなと何か安心のようなものを覚えました。
何かに悩んだ時に同時代の人の言葉を得ることも大切ですが、はるか昔の人の言葉を聞くことも癒やしにつながるのではないかと思います。こんなに昔の人でも悩んでたんだな~…と思うことがどれほど助けになるか、これも昔の人が言語化を試みてくれたから今私たちは恩恵を受けることができていると思うと感慨深いです。
今仕事の繁忙期ではやく取り掛からないといけないのですが、言語化したい気持ちが勝ってしまい書きました。こういう「書きたい」という気持ちをこれからも失いたくないなと思っています。
以上で終わります。
